‘なんでだろう’三菱重工風車の発展
(元)三菱重工業株式会社 対馬健
1、はじめに
この度、25回記念式展にて功労賞を受賞し大変光栄に思います。ひとえに諸先輩方の御指導と後輩諸氏の努力の賜物と紙面をかりて謝意を表します。
先に三菱重工業より風力発電装置開発の歴史について公表されていますので、この開発に取組んだ私個人の視点から当時を振り返って見たいと思います。
慣れない文章で読み辛いと思いますが、今後の風車開発に取組む若い人々のお役に少しでも立てれば幸いです。
2、‘なんでだろう’
西の端にある、三菱重工 長崎造船所で風車の開発に取組むようになった事は、それなりの物語があった。
当時の所内体制は、空気と蒸気を取扱う二つのグループがあり、空気を取扱うグループは仕事がなく、食べるために何でも取組む人々で構成されていた。
空気を取扱うグループに属していた私に1980年3月、突然金があるから風車をやらないかとの話が持ち上がったのが事の切っ掛けであった。
当時も受注してから開発して納入する仕事を行うのが当たり前だったので、このような話は初めての事だった。
1)40kW風車の開発
やはり、こんなうまい話はいつの間にかなくなり、安い価格の中古ヘリコプター翼を利用して風車を作れとの命令になる。
中古ヘリコプター翼の入手に奔走して何とか入手に成功する。数人のメンバーでとにかくプロペラ直径19m、3~5枚翼、出力40kWの風車を半年たらずの短期間に作り上げた。
当時の風車は風にまかせて風向を制御するフリー・ヨーウ、ダウン・ウインドウ型風車が流行で、ピッチ制御、同期発電機を採用した。
世相はオイル・ショック後の影響でアメリカを中心に風車建設ラッシユ、2MWの大型風車から数十kWの小型まであらゆる風車が建設されていた。
このような情勢の中、三菱で始めて造船所内の岸壁に使用されなくなったタワーの残骸を利用して建設した風車が運転を開始した。
季節風の強まった1980年12月、風向の追従は、回ってくれるか心配だったが簡単に回りほっとした。
当時のテレビに放送される等、只のエネルギーを利用する風車への関心は高く、上手く行けば売れるのではないかと思われた。
しかし、さらに強い風況下での試験を開始した所、ピッチ可変による回転数制御は風速変動に追従できず、プロペラがバタバタして飛散するのではないかと恐怖をおぼえた。
一部の人達は逃げ出す始末で懐かしい思い出の一つである。この時、初めて風車は簡単な機械でない事を思い知らされる。
しかし、技術者にとって大切な手触り感触を得た事は何よりの成果であったと思う。従来の技術延長では旨く行かぬと判断して、風車の回転制御方式をピッチ制御方式から負荷制御方式(ヒータ+リレー)に急きょ変更する。
この改造により安定した運転が出来る様になり、ヘリコプター翼を評価する事が出来るようになる。
早速、九州電力様より国内で開発中の大型風車、プロペラ直径30m、出力100kWより大きい大型風車を作れば発注して頂けるとの情報が入り、どのような仕様にすれば実現できるか悩む。
ヘリコプター翼は高速(200m/s)に適しているのでアスペクト比が小さくても大きな出力がえられる。それなら、根元に固定翼を設けて先にヘリコプター翼を使用してプロペラ直径33mとすると、3枚翼で出力300kWが可能になる。
発電機は簡単で価格の安い誘導発電機を採用する。以上の案を提案する事により、発電原価の安い離島(沖永良部島)向け大型商業用風車実現への歯車が回り出す。
40kW風車は以後5年間さまざまなトラブルを起こしながら回り続けて役目を終える。
2)沖永良部島300kW風車の開発
40kW風車のトラブルを解決しながら、大型風車の設計を数人のメンバーで開始する。
基本構想は、翼ピッチの頻繁な可変を避けるために、負荷である発電機の容量は大きくする。
公称容量は300kWとしたが、実際は定格410kWとした。方向制御は40kW風車同様にダウン・ウインドウとして風まかせとして、ヘリコプター翼の応力を低下させるため翼根部をピン支持機構を採用した。
沖永良部島で1982年11月15日より複雑な構造を有する大型風車の運転を開始する。
風向に対する追従もよく、11月22日には海岸から安定した風の吹く中、順調に定格回転に上昇し、初めて系統へブレーカが音を立てて併入した時の緊張感は忘れられない。
併入時に事務所の蛍光灯が瞬間まばたきをする以外問題なく、順調に出力が上昇し100kW程度記録した。
翼ピッチを1度変化させると出力が若干変化し、ヘリコプター翼に姿勢が変化する様子が見られ、翼精度のよさに感心する。
その後、大きな事故と対策に追われるが、何とか年明けの1983年2月20日に4/4負荷遮断テストを行い、8時間連続試験を完了する。
季節風のもっとも強い時期には瞬間500kWを越える運転状態もあり、きわめて良好な運転を続ける事ができた。
系統への影響は大型デーゼル機関との並列運転を行っている小型デーゼル発電機のガバナーがバタバタする程度で問題なかった。
ヘリコプター翼の評価は、間違うとすぐに折れるが正しく使用するとなかなか折れ難く、優れた性能を有し、理論通りに平均風速12m/sにて300kWの出力を出した。
問題の翼寿命は根元のピン支持機構の悪さから2,000時間(10の6乗回数)以上の寿命を確保する事は出来なかったが、貴重なノウハウを残してくれた。
3)アメリカ市場への進出
沖永良部島で悪戦苦闘している時、1984年突然商社から試験中の沖永良部風車を買いたいとの電話があり、びっくり、これが米国進出の糸口となる。
当時、アメリカ勢が製作した風車群は壊滅状態で、ヨーロッパ勢の風車が残りつつあった。
このような情勢から絶妙のタイミングで我々に出番が回り、ハワイ風車37台の受注戦に参加する事になる。
ハワイ風車は純民間の個人資本でハワイ島に風車を建設する意向を持っていた。
現地にはすでにヨーロッパ風車が一台試験機として立っていたが動いている様子はなく、これが原因で三菱に関心をよせたと思う。
この時点でハワイ37台、米国本土向け試験用20台の製作を開始する事になる。
技術的には沖永良部島で習得したノウハウをベースにそれなりの開発を行える自信はあったが、採算が取れるか新しい心配が付きまとう事になる。
4)米国向け商業用風車の開発
基本構想は一台当たりの価格が小額でも全体では57倍になるので、一にコストダウン、二にコストダウン、三がなくて、四もコストダウンを目指した。
一方、沖永良部風車の苦い経験からどの主要部品も現地で簡単に換装できるように配慮した。
風車要目はヨーロッパ風車の影響から可変ピッチ方式を除くと、プロペラ直径25m、3枚翼、発電機容量250kW、アップ・ウインドウ、ポール式タワーとなる。
ヘリコプター翼からFRP翼への転換はゼロからの出発であったが、素材は一方向に強いだけでは問題と考え、細い繊維が密に組合わされ、価格の安いGFRPを材とする事にした。
翼構造は、翼中央部に丸い主桁を入れて翼型を構成する板と接合する方式、薄い板のバックリングを抑えるために発砲剤を空間に注入する構造にした。
1987年7月ハワイ島の南端で37台及びカリフォルニア州テハチャピで20台の風車をほぼ同時に運転を開始する。
受注から1.5年程度の短期間に新しい250kW、FRP翼の風車を完成させた。米国本土のテハチャピ地帯はガラガラ蛇が出る砂漠地帯で数百台のヨーロッパ風車がすでに運転しており、まさに風車のオリンピックに出場した感があった。
動かない風車も点在していたが、まず驚いたのは、日中の大気温度40℃を超え、太陽が地平線に沈む頃から叩きつける様に10m/sec~20m/sの風が丘から突然吹きおろして早朝まで続き、日中は無風になる。
このような風を経験した事はなかったが、とにかく新しい三菱風車の運転を開始する。風が強いのでまたたくまに系統へ併入、予定の250kWの出力を出し、驚くほど順調な滑り出しを見せる。
FRP翼は風圧を受けて弓の様にそり、大丈夫か心配にもなる。他社のストール制御方式風車の運転状況を見たところ、12m/s以上の風況下(平均値)で安定した出力特性をしているのに驚き、高い設計技術に敬服する。
昼間の風のない時にバケットクレーン車に乗って翼ピッチの調整をしてので、それなり問題はあるようだ。当方の風車は12m/sを超える強風が年中吹くとは予想もしていなかったため、出力制御用のピッチが年中作動する事になり、リンクの摩耗が心配であったが、当面はきわめて順調で性能もよく客先からもさすが三菱と言っていただいた。
一方、ハワイの方は風が日本と同じく海からの柔らかい風が吹き、ピッチ制御をする必要もないので、リンク等の摩耗の心配もないと安心する。
その後、ハワイ風車は島にあるため系統容量が小さく、特に誘導発電機による系統力率の悪化及び変動出力増加は電力のサイクル維持に支障を来たし、風が強く風車の出力が増加してくると台数制限を行う事になる。
この事は全体の採算の悪化をともない、以後問題として残念ながら残る事になる。
幸い、テハチャピ風車は初期の立ち上がりが実にスムーズで大きなトラブルもなく、性能も満足できる値を示していたため、途中のトラブルは初期故障と考えられ、640台受注へと結び付ける事ができた。
この仕事を最後に私の会社仕事も終わり告げる。
5)若い人への提言
開発は創造の結集である。コンピュータの計算はコストダウンするために利用する道具にしかすぎないので、計算結果により決めましたでは、競争力のある商品は開発出来ない。
小さな事でも決定に当たり、多方面から十分な検討を行い、ともすれば狭くなりがちなコンピュータの欠点を補う必要がある。三菱風車の発達を返り見て‘なんでだろう’と思う。
平凡な見方であるが強い意思を持ったトップと開発経験の豊富な技術者がおり、それに運がよかった。見方を変えれば障害物競走で二番目を走っていたのが幸いしたのかも知れない。
これからの風力発電の発展を心から願う。